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| ◆ 駐在員生活の思い出/生生流転
彼はぼくのインドネシア勤務最後の年(1988年)にアルンで一緒に家族帯同していて、グアムに転勤後、ぼくにグアムのプロジェクトを一緒にやらないかと誘ってくれた草深氏だった。(news-176)
社内検査は一日で終わったが、その後サファリツアーに出かけたり、夜な夜なカジノに出かけたりとアフリカ生活を満喫して帰っていった。
彼とはその後も2度目のジャカルタ勤務時(1996-1998)に所長と事務長で3年間勤務し、退職して親父さんの建設会社を継いで社長になってからも新宿で飲んだりして長くつきあっていたが、コロナ禍の2020年、スポーツジムで運動中に心臓発作で急逝との知らせをカンボジアで聞いた。 ほんとに元気な人でゴルフやソフトボールでも活躍していたので信じられない思いだった。 1993年2月、PHASE-Ⅲ工事が工期を一カ月近く早め、利益率も予定を大幅に上回って竣工。
一方受注を狙っていたIHIのアティ・リバー セメント工場は工事開始が1年ずれ込んでしまい、PHASSE-Ⅲ工事の後始末を終えた後、日本へ帰国することになった。 ケニアではプロジェクトが継続する予定で、少なくとも5年は勤務するつもりでいて、まだ築2年だったわが家をリロケーションで貸して家族を帯同していたので、まったく残念な思いだった。 本社から帰国後の希望を聞かれた時、「会社に一任」と答えてしまい、国際支店、管理課の副課長として国内勤務することとなった。
2月27日、ナイロビ日本人学校で長女の卒業式。
その夜PTA会長(長女の同級生)の家で謝恩会。
スピーチで小学校5年の時たいたいと出会い現在に至る話をし、のろけスピーチとして大けっこうウケた。 最後はみんなでカラオケして飲んで騒いで2AM帰宅。
3月8日、カーニヴォア(店名”CARNIVORE”は肉食動物の意。バーベキューでキリンやワニ、インパラの肉も食べられた)でFAREWELL PARTY。
アスカリ(ガードマン)除くローカルスタッフ全員参加。
22時終了してゴーゴーバー・フロリダで二次会し、午前1時過ぎ帰宅。 翌日からローカルスタッフ、運転手、メイドたちを退職金代わりのボーナスを支払って解雇、インド人スタッフ、日本人職員の帰国手配を進めた。 車や家具の売却を進め、無税で入れた車は大学の学長、副学長に格安で売却。 ぼくが個人で輸入した中古のカローラは日本人のケニア定住者に売却した。
翌9日、副所長、四国支店から応援に来ていた若手建築職帰国。 PHASE-Ⅰ開始から赴任の副所長は当初家族(奥さんと小学生の娘さん二人)を帯同していたが、家族はケニアの生活になじめず半年で帰国。 以降は現地の女性と同棲していて、社内の飲み会などにも連れてきていた。 子供たちの目もありやめてほしかったが、仕事には超厳しい所長が、なぜかこれは大目に見ていて納得いかなかった。 副所長とは二度目のケニア駐在時も一緒に働いたが、ぼくがケニアから台湾に異動した直後(2003年)、タンザニアの小学校建設工事に従事中、現場事務所のトイレで脳梗塞を起こし発見が遅れたため半身不随となってしまい、2年後50代初めでなくなってしまった。 3月11日、インド人スタッフ帰国。 3月13日は長男(小三)、次女(小一)の日本人学校終業式。 3月15日、大学の現場からナイロビへTOOL(有料高速道路)走行中、一瞬意識が飛んで舗装されていない草地にはみ出してスリップし後輪パンク。
3月19日、最後のケニア国内旅行、マウントケニア・サファリクラブへ。 #223送ります またまた遅くなってしもた。火曜、38℃越えの熱が出て、水、木と家で寝てた (火曜のカラオケで感染した?) 。 金曜は回復して、40年来つきあっているジャカルタ時代の同僚二人と我が家で薔薇の鑑賞会(飲み会) その後カラオケ(火曜の店とは別の店にしたけど) 。
(2026.5.17up)
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